2010年1月28日木曜日

、、、流民の街!?

↑青い山脈・六甲山(1月23日土曜日、午後2時15分ごろ)この日も”六甲山が俺を呼んでいる”ような気にはなりませんでした。どちらかというと、我が心が六甲山を拒否してるような、、、、!遠目に見てもそれほど青くもない六甲山が何故「青い山脈」と呼ばれるようになったのか?映画『青い山脈』の主題歌の作曲に没頭していた服部良一さんが、国鉄の電車の窓から見える六甲山の山並の美しさに感動して曲の着想を得たので、六甲山のことを青い山脈とも呼ぶようになったそうです。「青い山脈」って曲は、小学校の先生たちが大好きでした。小学生の時の運動会ではこの曲でフォークダンスしました。映画を観て学校の先生になろうと決心された人も多かったかも?「未だ根深く残っている出雲の因習を打破するような人間を育てよう」なんて思われたのかも?、、、「狐持ちの家系」なんてことがまだ根深く残ってました。本家と分家との力関係なども色濃く残ってました。本家-分家の関係が因習と言えるかどうか疑問ですけど、確たる序列として続いていましたね。もうすでに実質は消えてますけど、形式としては今でも残ってます。年始の挨拶などは、まず分家から本家へ、それが終わってから本家から分家へ、などと今でもやってます。オヤジは若いころ学校の先生だったからか”因習の打破”に熱心でして、我が家では「本家」とか「分家」という言葉を使っちゃいけなかったです。祖父母たちや、祖父母たちと親しい人達もそのような言葉を使わなかったです。何故かといいますと、祖父母たちのグループには学校の先生になった人が多かったからでしょう。戦争中には”国賊”って呼ばれた人たちでもあります。戦争が終わると、元国賊さんたちの時代が来て、学校の先生や地域のリーダーになる人がたくさん現れました。親戚には元国賊がいっぱいおりました!江戸時代から自営農民や小地主で、庄屋さんの勢力に入らなくても生きていけた境遇の人達なのでした。庄屋さんのグループと昔から対立してたグルームでした。たぶん戦国時代ごろからずーっと対立して暮らしてたんじゃないでしょうか。体質的に国賊になりやすかったんでしょうか!そして、若いころに陸上の選手だった人がかなりいました。S.Yamaneは陸上競技三代目!!元国賊、スポーツ選手、学校の先生、、、。そのような人たちのめざましい活躍によって今日のような勝手気ままに生きておれる時代になった模様、、、、。田舎ではスポーツ選手が育つ家庭ってだいたい決まってますけど、現代の都市は流民ような人たちが集まって出来てるんで、家庭の伝統の中からスポーツ選手が育つようなことは稀なのかもしれません。「13才になったら何かのスポーツを始める」という発想が家庭の中で希薄かも?家庭や地域の伝統の名かにスポーツというものが在るんじゃなくて、学校のクラブ活動にあるんで、学校を卒業するとスポーツも卒業しちゃう人が圧倒的に多いです。地域総合型スポーツクラブって、スポーツの拠点を学校のクラブ活動から地域のスポーツクラブへ拠点を移そうとする試み。「平日の午後から小学生を対象とするスポーツクラブができるよう、その計画書を10月までに出せ」って言われてますけど、わが市では学校を卒業すると同時にスポーツも卒業する人が多くて、指導者になる人がおりません。それで、「駅伝をやれば地域のスポーツとして続くんじゃないか?」って発想といいますか、ほとんど妄想に近いですけど、そのようなことを言ってる人がかなりいますね。「地域のクラブ対抗駅伝のような形のものをやってもらいいたい」って言ってる人がいますけど、そのようかとこを行なうと、今でも人数の少ない中学校の陸上部が潰れてしまうようですが、、、。今、クラブ対抗駅伝を行なうと、野球、サッカー、ラグビー、バスケットなどに陸上部が負けて、ますます陸上をやる子どもが少なくなってしまうような気がしますね。陸上部に1年生が人りもいない学校とか、女子部員が人りもいない学校とかがありますので、今、駅伝を行なうとかえって陸上競技が衰えちゃうんじゃないかと思われます。「よその市で駅伝やってるからわが市でも、、、」って発想は通用しない!短距離は地域の伝統として残ってますけど、長距離には根が無い!!!駅伝が今よりずっと強かったころって、チームは流民の集合体なのでした。副会長のM氏は佐賀の流民、副会長のS氏は日本海方面からの流民、Uコーチは萩の流民、S.Yamaneは出雲流民、実業団のM氏は鹿児島の流民、K氏は吉野川の流民、N氏は鳥取の流民、、、と、元長距離選手は流民ばかりですね。生まれも育ちも地元民で駅伝の選手だった人って極小数です。

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